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2022.10.21

完治した娘のアトピー 食の大切さを痛感し完成させた「食こそいのち」構想

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Re:Inkビジネスカテゴリー第3回の登場者は、国富町と綾町に社屋を構える1930年創業の食品メーカー「大山食品株式会社」の4代目社長、大山憲一郎さん。お酢づくりから始まった同社の長男として生まれ、どのような道を歩まれてきたのでしょうか。大山さんの人生を、年表を示しながら2回に分けて紹介。(年表は公式SNSにて掲載中です)

前編では「二つある」という転機の一つ、同社が推進する「食こそいのち 循環の輪」構想を固めたきっかけなどについて掲載します。

 ―――本メディアに前回登場したスパークジャパン株式会社の岡田社長より「県内の若手経営者に期待することはありますか」との質問をいただいております。いかがでしょうか。

大山社長)

何事にも積極的にチャレンジしていってほしいですね。やってみないと分からないこともたくさんあるし、失敗も失敗と捉えるのではなく次への糧と考えて、とにかくガンガンやって宮崎を盛り上げてほしいですよね。

―――ありがとうございます。「失敗も次への糧と捉える」ですか。大事な姿勢ですね。それでは早速、大山社長のことについてお聞きしていきます。子供の頃はどのような家庭環境でしたか。

大山社長)

常に身の回りに「発酵」がありました。「さしすせそ」という基礎調味料がありますよね。昔の酢屋は、酢を売るのと同時に味噌や醤油も一緒に売っていました。地域の人の需要に応える形で、それらの基礎調味料をまとめて売るというのが普通でした。東諸県地区はうちが売っていましたので、家には当然お酢があり、台所の横は味噌と醤油がいっぱいあって、みんなそこに買いに来て。そこから配達にも行っていました。

だから自然と「発酵」に興味を持つようになり、好きになりましたね。菌やカビは目には見えないけどすごい働きをしています。発酵食品は実際に健康に良いことも証明されていますし、麹を使った技術というのは日本にしかない。知れば知るほど魅了されています、趣味になっていますね!

―――発酵が趣味ですか。だから大学も東京農業大学の醸造科に進学したということですか?それとも大山食品株式会社の3代目社長のご長男として生まれたため、後継者になる準備の一つだったのですか?

大山社長)

父から「跡継ぎになれ」って言われたことは1回もありませんでした。だから醸造科に進学したことは跡取りを意識したわけではなく、醸造の勉強がしたかったことと、あとは単純に東京に行ってみたかったということですね(笑)。

結果的に東京農業大学に行ってよかったなと感じています。というのも、新潟出身の大学の先輩に日本酒を勧められて、どっぷり日本酒にはまり、「日本酒造りをやってみたい」という夢ができました。醸造科は日本酒を造る免許もあって、造ることに興味が出てきましたし、そういうのが好きな先輩も多かったからですね。

―――話の流れからすると、日本酒の杜氏にでもなりそうですね。大学卒業後の人生を教えてください。

大山社長)

卒業後はドイツのワイナリーに研修に行きました。海外で働いてみたいという思いと、日本酒を将来造るにあたってワインがライバルになるのかなと考え、ワインの製法を学びたいなと思いまして。本当は5年ぐらいドイツにいて、ワインマイスターという資格を取得して帰国しようと思っていました。しかし、湾岸戦争が始まってしまい、その影響で研修ビザの更新が難しくなって、泣く泣く日本に帰国。湾岸戦争が終戦したら再びドイツに戻ろうと思っていたのですが、当時大山食品の社長だった父親に「仕事がすごく忙しいから、1~2週間だけ手伝ってくれ」と言われました。その期間ぐらいならいいかなと手伝ったら、結局会社から出られなくなってしまって。

今思うと、それが良かったのかなとは思いますけどね。別に家業が嫌いなわけでも、やりたくないわけでもなかったので。やはり長男家系の長男という運命なのか、家から離れようとするとぐっと引き戻されるんですよね。

―――運命で家業を継ぐことになったということですね。大山食品はお酢づくりがメインですよね。日本酒造りの夢はどうなりましたか。

大山社長)

 今ももちろん追い続けていますよ。日本酒の免許ってご存じの通り、新規取得はできません。だから、事業譲渡で免許売却してくれるところを探していますし、酒造りの準備会社として2000年には有限会社アヤサマーを設立しています。また、2008年には国富町法華嶽のどぶろく特区でどぶろく造りも始めました。すべて日本酒造りにつなげるためです。それに、原材料の栽培から加工・販売まですべてを自社で完結させる「食こそいのち 循環の輪」事業の構想も2015年に完成させましたが、その起点も酒造りですから。

―――日本酒造りへの愛は冷めるどころか、燃え上っているということですね。ところで、「食こそいのち 循環の輪」事業を詳しく教えてください。

大山社長)

酒、塩、酢、醤油、味噌(料理のさ・し・す・せ・そ)、豆腐、こんにゃくを原材料から手作りし、自社経営の飲食店や直売所、スーパーなどに卸して消費者に「おいしくて体にいいモノ」を届けるというものです。実は2015年以前より描いていましたが、ある大きなきっかけがあって絶対に成し遂げたいと構想を具体化し、実現させるために今奔走しているところです。

―――大きなきっかけとは何ですか。

大山社長)

私には娘が5人いて、長女、三女、五女がアトピーでした。特に長女は症状がひどく、どうしていいか分からないぐらいでした。そんな長女が8歳の頃、綾町のオーガニックレストランで「ニンジンから宇宙へ」という本に出逢いました。当時、地元の人から「アトピーにはニンジンがいいらしいよ」と聞いていたので、何気にその本を取りました。そこには「アトピーは病気ではない。すべて食が原因」という内容が書かれていました。具体的には、食を通じて体内に取り入れてしまった石油化学物質からできた合成品や農薬化学肥料を体外に出す働きがアトピーということでした。だから、無農薬無化学肥料の玄米や野菜、それらを使った発酵食品だけを食べていれば治ると。藁にも縋る思いでそれを実践した結果、本当にアトピーが治ったんです。本当に感動しました。

それと同時に食の大切さを改めて感じ、その本の著者である赤峰勝人さん(大分県)に会いに行き、赤峰さんに教わりながら米作りを始めたんです。米は酒や酢の原料となるため、米作りが必要だと感じていたところでしたし。赤峰さん自身も循環農法というものを行っていて、娘のアトピーを機にした赤峰さんとの出会いはものすごく大きかった。それがなければ、思い描いた循環の構想も完全なものにはなっていなかったと思います。

文:小野友貴人 写真:田部祐徳

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大山憲一郎

1967年、国富町出身。本庄中-宮崎大宮高-東京農業大学農学部醸造科を卒業後、西ドイツのワイン協同組合で1年間の研修を受けて、1991年に家業の大山食品株式会社に入社。2004年に農業や酒造りの修行のために一時退職するも、2006年に復職して以来現職を務める。日本酒、音楽、モーターサイクル、映画、読書と多趣味で、「趣味も仕事にすれば大手を振ってできる」と、一番の夢である日本酒造りを事業化するために奔走中。「将来はバイクや車も仕事にしたいですね」と企図する。

LINKhttps://www.ohyamafoods.co.jp/

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